Codaroの歴史
10分もかからずに町の外周を一周できてしまうほどの小さな町サッレ。町の中央を走り抜ければ、5分で端から端までたどり着けるくらいのイタリア/ペスカーラ地方の小さな町は東にマイエッラ山、南にモッローネ山を望む小さな谷合に位置しています。人口約200人のこの谷には、当然レストランなどといったものはありません。この町にあるたった一つの店は、明るいライトの中、折りたたみ椅子を引き寄せてひとすすりのエスプレッソを地元の人々に提供する、小さなバーのみ。彼らは理想的な恵まれた天候の下、吹雪の中をショートパンツとT-シャツ1枚で村の周りをハイキングできるんだという話を、イタリア訛りの英語で話してくれるでしょう。そしてもし貴方が、この村でディナーとともに一泊したら、彼らはレンガ造りのオーブンでじっくりとローストした今までに食べたこともないくらい美味の豚の丸焼きで、あなたを歓迎してくれることでしょう。
町の中央に佇む一つの教会、そこは危機に瀕する町人たちを庇護し、支え続けている聖地ともいえる場所です。この教会に保管されている昔の公文書に、ある子供の誕生が記されていました。1680年誕生「Donato D’Addario」、成長した彼の職業は非常にシンプルにこう書かれています…「cordaro」。そう、イタリア語で弦職人を意味する言葉です。
その当時、この街の商業活動のメインは2つ。富裕層は牧場を運営し、そうでないものは弦職人として暮らしていたようです。
ダダリオ家は、この土地ならではの動物の材料をベースに、牧場運営、弦生産、どちらにも従事していました。サッレは新鮮なチーズ、豚の生ハム、ソーセージやベーコン、ラードや豚の塩漬け等の名産品だけでなく、果物や野菜、オリーブオイルやワイン等の産物にも恵まれた肥沃な農産地でした。
現在のように、合成化合物が使用されるようになる以前、リュートやギター、ハープ、バイオリン等の弦は豚や羊の腸(ガット)で作られていました。この腸(ガット)を使い、良質な弦を作るには大変な手間と長い時間を要しました。毎週月曜日の夜明けとともに始まり土曜日の夕暮れ頃まで、いくつもの複雑な工程が踏まれ、また月曜日の夜が明けるとともに再び繰り返されるという、途方もない工程だったのです。
Early Days
ダダリオ家はこの小さな村で何世代にもわたり、弦生産における複雑な工程を継承していきました。そんな穏やかな日々に終止符がうたれたのは、1905年の大地震でした。一家はこの街を離れ、義理の弟RoccoとCharlesのいる米国NY州クイーンズ地方、アストリアへと移住し、それがダダリオ家において重要なターニングポイントとなったのです。一家を迎えるためサッレに訪れたCharlesの父・Giovanniは、故郷の地のために何かできないかと考え、“弦職人の地”とも言われたサッレゆかりの楽器弦をアメリカに輸入することにしたのです。
移住後、アリストアの地はダダリオ家の深い悲しみを少しずつ癒していきました。この地には、地震で同郷を去り、新天地で再スタートしようという希望に満ち溢れた弦職人が多くいたのです。彼らは皆、故郷サッレの慣習、食文化をもちこみ、アメリカに彼らの第2の故郷を築いていきました。そんなさなか、CharlesとRoccoはビジネスパートナーを解消したのでした。のちに2人がこの地を訪れた時、Charlesは結婚し、新たな家庭を築いていました。
Charlesは家族にも、仕事にも恵まれ、順風満帆な生活をおくっていました。1918年、アストリアにある彼の家のガレージにて、弦造りを始めたのです。家族総出で、弦造りの複雑かつ手の込んだ工程を学んできました。繁忙期には、子供たちも仕事に駆り出され、ラベル貼りや、弦の仕分けを手伝ったものでした。Charlesは弦造りだけでなく、バイオリンメーカーやミュージシャンへの弦のセールス等、どこにでも出掛け、営業活動に勤しんだのです。そして大物ミュージシャンからのアドバイスや意見を踏まえ、品質向上に励んでいったのでした。
A NEW ERA
1936年頃、Charlesの第二次世界大戦での兵役期間以外は、妻Annaと彼の唯一の息子が父親とともに、弦造りに加わりました。その頃、C.D’Addario& Sonと社名を変更し、事業を拡大していきました。同時期に、息子John Sr.は、品質が定まらない動物のガット(腸)の代替となる合成化合物に目を付けました。これが弦業界を揺るがす技術革新への第一歩だったのです。戦争中、合成化合物の技術進歩は著しく、米デュポン社が、史上初のナイロン製品製造にのりだしました。製造されたナイロン製品は髪の毛や歯ブラシのような細かい美しいものでした。1947年デュポン社より、サンプルを取り寄せたところ、その品質は想像以上の良質なものだったのです。彼はすぐさま、デュポン社よりナイロンを仕入れ、弦の生産を行っていきました。当初のナイロンは、特に高音を奏でるハープの弦に最適だったのです。
このナイロンを使用した弦を世に広めるため、Charlesの旧友でもある、世界的ハープ奏者Carlos Salzedoに試奏させたところ、今までにない良質な弦であると賞賛を得ることができました。それ以降、彼はハープ以外の弦にもナイロン弦を取り入れていきました。Johnは弦の種類を豊富にし、またゲージの太さを調整するため、ナイロンの研磨方法を極めていったのです。こうして、ほぼすべての弦楽器弦をナイロン弦に移行させ、ミュージシャンへのセールスを続けていくことで、「D’ADDARIO & SON」の名を広めていくこととなったのです。
1930年代、戦争の活発化が進む一方で、The Glen Miller Orchestra, Tommy Dorseyといったバンドの台頭により、ギター人気は急激に伸び始め、それに伴いギター弦の生産も右肩上がりの好調をみせていきました。当初ギターはリズムを刻む楽器として使われていましたが、のちに登場するElvis PresleyやThe Beatlesにより、ギターはメロディーを奏でるメインの楽器という認識が高まり、ギター人気は急上昇していくこととなったのです。
受注生産方式で弦製造を行っていたJohn Sr.は、急上昇する弦需要の高まりに不安を覚えるものの、ファミリービジネスを拡大させることに難色を示していた。しかしながら、1956年、父Charlesの承諾を得て、スチール弦、ギター/ベース用のエレキ弦製造の合名会社Archaic Musical Strings Manufacturing Coを設立、John D’Addario, John Sr., Albert Monrate, また義理の弟のGino Burelliの4人の管理のもと運営されていくこととなったのです。
C.D’Addario & SonとArchaic Musical Strings Manufacturing Co.は別々に稼働していたものの、Archaic社はC.D’Addario & Son社と同じく、Gretsch, D’Angelico, Martin, Guildへ出荷する弦の製造を行っていました。Charlesが定年退職した1962年、Johnはこの2社を合併させることを決断し、Darco Music Strings, Inc. を設立。この時すでに、ギターは米国内で最もポピュラーな楽器となっており、この合併は弦業界の動向を大きく揺るがすこととなったのでした。
Darco and Beyond
Darco社はJohn Sr.の働きにより、飛躍的な成長を遂げていきました。業界初となる自動で弦を巻く機械の導入、ラウンドワウンド弦の開発等、Darco社は弦業界をリードする大手メーカーとなっていったのです。これらの革新ともいえる新たな製品、生産方式は今では世界中で取り入れられてさえいるのです。
1960年代後半、John Sr.の息子たちも本格的に事業に参加していきました。幼少期から弦造りを手伝い、D’Addario社とともに成長してきた息子たちは、ごく自然に弦業界に興味をもっていったのでした。
特に息子John Jr.は10代の頃から、弦業界に強い興味を示し、弦の製造工程だけでなく、営業活動のノウハウについても、父親から熱心に学んでいきました。のちにビジネスの才覚を磨いた彼は父親たちに混ざり、経営者の一角を担うこととなったのです。John Jr.は、特に財政面で才能を発揮し、アメリカ人をダダリオ家に代々伝わる手の込んだ複雑な生産技法の虜にさせ、融資をつのり、会社の安定、成長に貢献していった。
末っ子のJamesは熱心なギター愛好家で、髪型も当時流行のBEATLESカットにしていたほどでした。そんな傍ら、彼の興味はエレキ弦の研究・開発にも向いていったのです。そんな彼がのちに考案した機械による弦の自動生産方式が、製造工程の大幅な効率化や多くの技術革新に繋がり、Darco社のさらなる発展に一役買ったことは、容易に想像できることでしょう。1969年、Jamesは大学在学中の傍ら、Darco社に入社、彼は印刷部の立ち上げを行う一方で、営業、企画・広告コーディネーターとして、尽力していきました。John Jr.とJamesは、印刷物の外注を除き、会社をできる限り自給自足させたいと目論んでいました。
父の経営方針のもとでは、その目論みは実現を見ることはできませんでしたが、Darco社の業績は安定した成長を遂げていきました。そんな急成長のさなか、市場でのDarco社の成長を危惧し、また原材料の共有やマーケットシェアのさらなる拡大を目指し、合併話をもちこんだのが、当時シェアNO,1をほこる弦メーカー、C.F.Marin & Co.でした。 両社合意のもと、合併は成功を遂げることとなりましたが、その後旧Darco社側が独立を決断し1974年、現在の”D’Addario & Company, Inc.”の設立に至ったのです。
A New Behinning : D’Addairo & Company, Inc.
”D'Addario & Company, Inc.”社の初代工場はニューヨーク州Lynbrookに置かれ、たった5人での再スタートを切る形となりました。これまでと同様、John Sr. , John Jr. , Jamesが運営を行い、販売戦略がたてられていきました。Jamesの妻Janetはパッケージデザインを担当し、のちにデザイン部を統率する、D’Addario社の主要メンバーの一員となっていきました。社内での印刷業務の充実化は、巣立ったばかりのD’Addario社における、生産ライン拡大のための費用を捻出する重要なポイントであったのです。こうして、D’Addarioの名を冠した独自の製品を世に送り出す第一歩を踏み出したのでした。アグレッシブな販売戦略が功を奏し、D’Addario製品の人気はすぐさま高まり、工場スタッフを10人増員し15人体制で製造にあたっていきました。
1980年代初旬John Jr.とJamesは製品ラインナップの増強を考えていました。John Sr.は懸念を抱きつつも、あとは頼れる息子たちに経営を任せようと引退を決心。その後、老舗クラシック弦楽器メーカー、Kaplan Music String Companyを買収し、のちに成功を収めることとなったFretted Lineの導入に打って出たのです。
John Jr.とJamesは研究開発に着手、のちに世界的名声をうける製品ラインナップの製作を行い、D’Addario社は、ついにバイオリン等のボウ・ストリング部門においてシェアNo,1の座を獲得するに至ったのです。この時既に、ギター、ベース弦の人気は高かったものの、このシェアNo,1獲得がギター弦シェアのさらなる拡大に貢献し、D’Addarioの地位は確固たるものとなっていったのでした。
1984年、高まる需要に対応するため工場を移転し、新たに150人を増員させ、生産工場の拡充に着手。この移転を皮切りに、その後10年間、生産拠点の拡大化を図っていったのでした。
現在では、ファーミングデールに190,000平方メートル、 カリフォルニア州リコの51,000平方メートルもの広大な工場にて、総勢900人を超える体制で生産を行っています。規模が拡大し、人員が増加しながらも、ダダリオ家のものづくりの精神は従業員一人一人に至るまで、今もなお継承されています。物流拠点をカリフォルニア州に、支店をシカゴとロサンゼルスにおくことで、輸出業務やアーティストリレーション業務における充実化を図っています。またカナダにも物流拠点を設け、安定した製品供給を行っています。その他日本、オーストラリア、香港、フランスに海外支店を設け、各国代理店のコンサルティング業務にあたっています。
D’Addarioの成功の秘訣、それはこれまでの研究開発努力にあります。Jamesが舵をとっていたエンジニア部では、様々な画期的な生産方法、パテントを生み出しました。直面した問題点に背を向けず、自分たちで問題を解決し、さらなる品質改善につとめています。弦以外の製品としては、EVANS Drumhead (1995), Planet Waves(1998), HQ Practice Product, Drum silencing, silent practice product(2004), Rico Reed (2004)があげられます。
Family, Success and the Future
D'Addarioの成長の秘訣の一つが、「as much in IN HOUSE as possible」の理念であります。今や、ハイデルベルグ印刷機、その他膨大の数の印刷機を導入し、以前は外注していた印刷業務も社内で行うまでに至りました。ならびにマーケティング、パッケージデザインも、自社スタッフが行うため、コスト削減だけでなく、市場動向・顧客ニーズを正確にとらえることで、数多くの販売キャンペーンの成功を収めていきました。
しかしながら、D’Addarioの成長の一番の要素は、世界各国の販売代理店とのネットワークにあります。現在アメリカ国内約5400の小売店の他、101ヶ国120の代理店を通して、D’Addario製品が全世界に供給されています。
1996年、Jamesは父John, Sir. 母Mary、妻Janet、3人の子供をつれて、D’Addario家発祥の地、イタリアのサッレを訪れました。そこでは思いもよらぬ温かい歓迎を受け、町中でのパレード、市長宅での晩餐会が催されました。サッレ出身のD’Addario家のアメリカでの成功のニュースはしっかりと、故郷のサッレにも届いていのでした。
2000年6月にJohn Sr.は家族に見守られながら、息を引き取りました。D’Addario社の業務拡大に尽力する子供たちが、John Sr.の一番の誇りでした。現在親戚を含む全13人が、さらなる高みを目指して、今に至る現在も日々健闘しているのです。
忘れてはならないのは、全従業員に対する感謝の念です。家族ではじめた小さな会社が、ここまでの成長をとげるには、多くの才能あふれる人員が不可欠でした。John.Jr やJamesのように家族・仲間を大切にすること、それを胸に、私達は今後もD’Addario製品を世に送り続けていきます。 |