エレクトロ・ハーモニックスを語るには、マイク・マシューズのライフストーリーも欠かせません。
両者は互いに絡み合い、同じ豊かなタペストリーの一部なのです。

1941 ~生い立ち~

マイクは子供の頃から粘り強い起業家精神を持っていました。彼自身の言葉を借りれば、「5歳の頃からビジネスに夢中だった。自分でビジネスを始めたいと思っていたんだよ。私が育ったのは1940年代のブロンクス(ニューヨーク市)。ハンガーで下水道からボールを釣り上げては売っていたのさ。第二次世界大戦中に双眼鏡を作っていた人の在庫を買ったんだ。プリズムもレンズも全部入っていた。中学生の時にそれを売って、プリズムの一大ブームを作ったよ。学校中が虹だらけになってね。先生方はそれらがどこからやって来たのか分からなかったみたいだ。キャンプに行って、子供たちがゴルフをしているときに私は池に入ってゴルフボールを探して売ったり、休み時間にこっそり湖に潜って釣りのルアーを取ってきて売ったり。」

「音楽に関しては、私が幼い頃、母が私にピアノを教えてくれた。5歳のときだ。その1年後には正式なクラシックの先生に習って、7歳のときには小学校でコンサートをやり始めた。小学校4年生のとき、私は暴れん坊で、教室の垂木に登ってしまったんだ。罰として先生が次のコンサートを中止にしたので、私は怒ってピアノをやめてしまった。しかし、高校生になってロックンロールが進化し始めた頃、ピアノでブギウギに取り組むようになり、かなり上達したんだ。」

1958 ~コーネル大学時代~

「コーネル大学で初めてライブを見たのは、ソーヤー・ブラザーズというR&Bバンドだった。彼らは信じられないほどソウルフルなサウンドで、私は大きく影響を受けたんだ。私はバンドを結成し、ウーリッツァーのエレクトリック・ピアノとハモンドM3オルガンを使って、ソーヤー・ブラザーズのR&Bスタイルで演奏した。私は音楽を演奏することに夢中になり、すべてのライブのブッキングをしていたんだよ。コーネル大学在学中や夏のロングアイランドでは、ロックンロールバンドのプロモーションも行って、ザ・コースターズ、アイズレー・ブラザーズ、ドリフターズ、ラスカルズ、バーズ、ラヴィン・スプーンフルなど、何十ものバンドを雇ったんだ。」

1966 – 1968 ~IBM勤務時代~

マイクはコーネル大学を卒業し、電気工学の学士号と修士号、およびビジネスマネジメントのMBAを取得しました。1965年にコンピュータのセールスマンとしてIBMに入社しましたが、コンサートのプロモーションは続けていました。その中に、後にスーパースターになる若いギタリストがいました。

1965 – 1970 ~ヘンドリクスとの日々~

マイクは次のように回想します。「私はジミ・ヘンドリックスという名前を使用するようになったジミー・ジェームスとも親しくなった。その経緯はこうだ。65年の夏、私はチャック・ベリーをロングアイランドのフリーポートにあるハイウェイ・インに1泊2日1000ドルでブッキングしたが、その際、バックバンドを用意しなければならなかった。チャック・ベリーを手配したプロモーターからライブの1週間前に電話がかかってきて、カーティス・ナイト&ザ・スクワイヤーズというバンドを雇ってくれと頼まれたんだ。彼は、歯を使って演奏する素晴らしいギタリストがいると言っていた。しかし、お客さんはチャック・ベリーを見に来ているのだから私はそんな投資はしたくなかった。

エージェントは、最初は3晩で600ドルと言っていたが、500ドルに値下げしてくれと言ってきたので、私は彼に恩義があると思って承諾した。最初にチャック・ベリーを出演させたのは、カーティスのバンドの音がどんなものかわからなかったからだ。ライブのお金を数えていたら、ベリーのバックアップのために組んだバンドのギタリスト、スティーブ・ナップが走ってきて、「おい、こいつがギターを弾いているのを見てくれよ!」と言ったんだ。それがジミー・ジェームスだったんだ。彼は当時、とても流麗なR&Bスタイルで、私たちは意気投合したんだよ。

IBMでの昼休みに、ジミー・ジェームスのホテルの部屋に遊びに行くようになったんだ。彼は、タイムズスクエアにあるバスルームのないボロホテルに住んでいてね。ベッドがあるだけで、他には何もなかったよ。私たちは、このプレイヤーはどうだ、こっちのプレイヤーはどうだともっぱらバンドトークをしていたもんさ。ある夜、カーティス・ナイト&スクワイアーズがウェストサイドのクラブで演奏していて、休憩中にジミーが「辞めて自分のバンドを持ち、ヘッドライナーになりたい」と話しだしたんだ。私は、『もしそうするなら、君は歌わなければならないだろう』と言った。彼は「わかってるよ。それが問題なんだよ、僕は歌えないんだ!」と言ったのでそこで私は、「まあ、努力すればできるよ。ミック・ジャガーやボブ・ディランを見てごらん、彼らは実際には歌っていないんだ、ただフレーズを言っているだけなのに素晴らしいんだよ」と話したら、彼は、「そうだね、君の言うとおりだ」と言った。そして、私の励ましもあって彼は歌い始めたんだと思うよ。彼も同じようにソウルフルなフレージングのスタイルを持っていた。その後、彼がジミ・ヘンドリックスとして大成功を収め、ニューヨークに戻ってきてレコーディングをするようになると、彼はいつも私をレコーディング・セッションに招待してくれて、一緒に作業をしたりしたのさ。

1967 ~FOXEY LADY ペダル~

IBMに在籍していた私は、辞めてフルタイムでバンド活動をしたいという気持ちが高まっていた。当時は、キース・リチャーズのファズトーン・ギターリフを使った「サティスファクション」が最長のNo.1ヒットになっていて、マエストロはファズペダルをすぐには供給できなかったんだ。ニューヨークの楽器店はすべて西48丁目にあり、そこにはビル・ベルコという修理屋がいて、ファズトーンを次々に作りだしていた。彼は、「おいマイク、一緒にやらないか?もっと早く作れるぜ」と言った。当時、私は結婚していて、妻は保守的な人だった。私は手っ取り早くお金を稼ぎたかったので、「ここに2万5,000ドルある、俺は遊びに行く、これで少しは安心だろ」と言えるようにしたかったから「OK」と言ったんだ。IBMを辞めて旅に出ることができるくらい稼げると思ったんだよ。でも、彼は何も仕事をしていなかったことが判明して、結局、ロングアイランド・シティの業者と一緒にそれを自分でやることにしたんだ。ギルド・ギターの創始者であるアル・ドロンジが私の作ったペダルを全部買いたいと言ってきたので、数週間ごとに数百個のペダルをニューヨーク州ホーボーケンのギルドに持っていくと小切手を書いてくれて、それが一段落した後に私はIBMの仕事に戻ることになったんだ。アル・ドロンジは、ジミが当時大流行していて、誰もが彼のような音を出したいと思っていたので、フォクシー・レディ・ペダルと名付けようとしたんだよ。」

1968 - 1981~ アイコンになるまで

オーバードライブの時代

1968 リニア・パワー・ブースター LPB-1

26歳のマイクは、1968年にわずか1000ドルでelectro-harmonixを創業しました。その時EHXの最初の製品であるLPB-1リニア・パワー・ブースターが誕生したのです。それは現代音楽のサウンドに多大な影響を与え、「オーバードライブの時代」の到来を告げるディバイスでした。
マイクはこのように説明する。「electro-harmonixで最初に作ったペダルは1968年の終わり頃で、LPB-1リニア・パワー・ブースターだった。私はベル研究所の受賞歴がある発明家、ボブ・マイヤーとに連絡を取りました。歪みのないサスティナーを設計する為に彼と契約して、プロトタイプをチェックしに行った時、サスティナーのプロトタイプの前に小さな箱が繋がっていたのを見たんだ。彼に「それは何?」と尋ねると、「あのギターの信号があんなに低いとは思わなかったから、シンプルなトランジスタを1つ組み込んだブースターを作って前に挿しただけだよ」と言うんだ。スイッチを入れたら、突然アンプの音がすごくでかくなったんだ!」。私は、『すごい! これは売れる!』と言いました。当時、アンプはヘッドルームを広くなるように設計されていたからオーバードライブなんてものはなかった。だから、10まで上げてもクリーンのまま大音量になったんだよ。だけど、このディバイスを使えば、アンプへの入力レベルをもっと大きくして、しかもオーバードライブさせることができるんだ。私はこれをリニア・パワー・ブースター、LPB-1と名付け、通信販売で売り始め、その後店頭でも販売するようになったんだ。今でもLPB-1はたくさん売れているよ。

1969 BIG MUFF PI

それからたった1年後の1969年、マイクはBig Muff Piを発表しました。このペダルは、electro-harmonixで最もよく知られるペダルであり、ポピュラーミュージック史に名を残す著名人の多くが愛用してきた画期的な製品です。Big Muffの著名なプレイヤーには、Pink FloydのDavid Gilmour、Smashing PumpkinsのBilly Corgan、The Isley BrothersのErnie Isley、Carlos Santana、Dinosaur Jr.のJ Mascis、The White StripesのJack Whiteなど多くの人が名を連ねています。
「最初の1台は、ニューヨークの西48丁目にあるマニーズ・ミュージックの社長、ヘンリー(マニーの創業者マニー・ゴールドリッチの息子)のところに持って行ったんだ」とマイクは話しました。一週間ほどして、ケーブルを買うためにマニーズに立ち寄ったところ、ヘンリーが『おい、マイク、あの新しいBig Muffをジミ・ヘンドリックスに売ったぞ!』と叫んできたんです」。その後まもなく、あるジミのレコーディング・セッションで、私はそのBig Muffが足元に置かれ、彼のアンプに接続されているのを見たんだ。
1968年、EHXの初年度の売上は5万ドルでしたが10年後には500万ドルに達し、さまざまな経歴を持つ250人以上の従業員を抱えるまでに成長しました。ほとんどのスタッフが未熟練労働者からスタートし、マイクは無制限の昇進機会を与えました。EHX社の営業部長だった、アフリカ系アメリカ人のウィリー・マギーは、チトリン・サーキットでギターを弾いていました。
海外マーケティング担当のマニー・ザパタは、コロンビアからの移民でした。2人とも、最初は未熟練労働者として入社し、出世していきました。マイクの哲学は、年功序列ではなく、実力主義で昇進していくことでした。1978年、マイクはニューヨーク州の「Small Business Person of the Year」に選ばれ、electro-harmonixは大きく飛躍しました。

70年代後半 ホール・オブ・サイエンス

この時期、マイクは彼のビジネスに対するアプローチがいかに型破りで、独創的であったかを象徴する2つの出来事がありました。1つは、ニューヨークの西48丁目150番地にelectro-harmonix・Hall of Scienceをオープンさせたことです。当時、西48丁目はミュージック・ロウと呼ばれる、音楽用品の絶対的な激戦区で、この通りの両サイドには多くの楽器店が軒を連ねていました。ニューヨークを訪れるミュージシャンは皆、西48丁目を訪れ、スティーヴィー・ワンダーからバディ・リッチまでが店から店をはしごしている姿を見かけることも珍しくありませんでした。
そんな時代の中、マイクがオープンさせた製品やブランドの展示センター「EH Hall of Science」は、Electro-Harmonix製品のエキスパートがデモストレーションを行うステージやミュージシャンが製品を試せるセルフ・デモ・キオスクがあり、ミュージシャンやミュージシャンを志望する人、観光客がelectro-harmonix製品に夢中になれるかっこよくて開放的で、魅力的な場所でした。EH Hall of Scienceで最も印象的だったのは、めまいがするほど革新的なエレクトロニック・アートの数々でした。会場での直販はしていないものの、すぐ最寄りにあるお気に入りの楽器屋さんで購入することができました。

1979 モスクワ・コンシューマー・EXPO

もうひとつは、electro-harmonix Work Bandという、マイク自身を含む5人のミュージシャングループで、10日間に渡りロシアで公演を行ったことでした。1979年、ソ連商工会議所がモスクワで開催したConsumer Goods Exhibition(消費財エキスポ)では、初めて海外からの参加者を受け入れました。モスクワのソコルニキ公園で開催され、electro-harmonixを含め、アメリカからはわずか2社(もう1社はリーバイ・ストラウス社)の出展となりました。日本やドイツからも数十社が出展し、同じパビリオンを共有していました。EHXの最新ペダルを駆使したワーク・バンドは、満員の観客を魅了しました。

electro-harmonix Work Bandは1日に3回演奏し、そのたびにソコルニキ公園全体に音が響き亘りました。それを聴いた大勢の人々は、このショーを見るために他の展示物やパビリオンを離れて公園に集まってきました。このエキスポはElectro-Harmonixを中心としたアメリカの文化と音楽を祝うイベントとなりました。この旅で蒔かれた種は、マイクとElectro-Harmonixにとって何年も後に素晴らしい実を結ぶことになるのです。詳しくはまた…

1981年 EHX、労働組合に狙われる

「投げられた卵は飛び散るだけじゃなく痛いんだ!」
マイクマシューズ
成功はそう簡単ではありませんでした。1981年、electro-harmonixは、国際婦人衣料労働組合(IGU)の支部であるプラスチック・モールド・ノベルティ労働組合(ローカル132)に目を付けられました。そして、electro-harmonixのすべての従業員をローカル132に加入させ、組合加盟店にするために、マイクに"甘い条件 "を提示しました。
「1銭の損もしない。それどころか、経費節減になるよ」と言われましたが、彼は提示された条件を拒否しました。

1981年8月10日(月)の朝、electro-harmonix社の前に、外部の扇動者たちが騒がしく集まっていました。Mike Matthewsが建物の入り口に近づくと、数人の厄介な連中に声をかけらました。アドレナリンが出ていたマイクは彼らを抑え込むも、助けに飛び込んできたエラスモという社員の前歯が折られてしまいました。地下鉄から降りてきた従業員たちは、組合カードにサインするように迫られ、それを拒否すると、卵を投げつけられ、拳やクラブで脅されました。ビルに入ろうとする従業員たちは、組合が雇ったチンピラたちから浴びせられる罵声や暴行から逃げなければなりませんでした。

マイク、NBCで組合を批判

その週の月曜日の朝、マイクはNBCのニュース記者、ジム・ヴァン・シックル氏に連絡を取りました。彼は、数カ月前にelectro-harmonixについて記事を書いた記者を通して知り合った人物である。
マイクはその時に何があったかをジムに伝え、そして「ジムは“これはニュースだ!だけど僕はニュースを読むだけ…採用する記事はデスクエディターが決定することなんだ。君のコメントはデスクエディターに伝えるけどね。って言われたんだ」ということを後に話してくれました。

水曜日の午後、マイクはヴァン・シックルから電話を受け、NBCが近くのフラットアイアン・ビルとノーマークのバンにクルーを隠し、主催者の強硬手段を撮影したことを告げられました。
「この進行中のストーリーは、水曜日、木曜日、金曜日にチャンネル4ニュースで放映され、私は金曜日のNBC Live At 5テレビ番組に招待され、国中の労働争議行為を非難しました!」とマイクは説明しました。

チャンゴがデモを黙らせる

“チャンゴはブチ切れて殴り掛かった。彼らは散り散りになり、チャンゴに何も言えなくなったんだ”

デモの最中、UPSやニューヨーク市警などが "ピケットライン "を越えることを拒否しました。
マイクにはチャンゴのニックネームで呼ばれていたチャールズ・エヴェレットという友人との間に面白い逸話が1つありました。
チャンゴは、ブルックリン出身のアフリカ系アメリカ人で、ストリートに精通し、ニューヨークで人気のあるドラマーで、マイクが一時的に手伝ってもらうために雇った人物でした。
「私が梱包された注文品をマンハッタンのUPS中央施設に運ぶためにトラックを借りた時、チャンゴはショットガンを持って助手席に同乗してきたんだ」とマイクは語っています。
西23丁目のelectro-harmonix本社に戻ったとき、私はトラックを駐車する前にチャンゴを降ろすために車を止めたんだ。突然、組合のチンピラ数人がチャンゴに向かって『おい、XXX(差別用語)!』と怒鳴ったんだ。チャンゴはブチ切れて、トラックから飛び出し、チンピラたちに殴り掛かった。彼らは散り散りになり、それ以後チャンゴに何も言えなくなったんだ!」
マイクとチャンゴは、2018年末にドラマーが亡くなるまで友人であり続け、会社のパーティーでは、マイクがチャンゴのバンドをしばしば雇っていました。

夢途絶える

Mike Matthewsは、フィラデルフィア・ナショナル銀行を通じて、会社の売掛金をファクタリングしていました。electro-harmonixの財務問題は、組合員の破壊的な行為によって加速度的に大きくなっていきました。そして、このままでは会社が立ち行かなくなると判断した銀行は、即座に融資を停止し、会社の資金繰りを悪化させました。これが痛恨の一撃でした。

電気を止められ、マイクはガス発電機を持ち込んで、限られた電力を供給しました。このような苦難の中でも、彼と従業員は高いモラルを保っていました。
しかしマイクは、「我々は権利のために闘ったが、経済的な問題を克服することはできず、間もなく、清算を余儀なくされた」と回想している。マイクは工場を閉鎖し、破産を申請せざるを得ませんでした。

最終的に、全米労働委員会は、組合に「停止命令」を出しました。残念なことに、それはあまりに遅すぎました。

90年代前半 空白を埋める

マイクが過去にワークバンドと一緒にソ連を訪れたことが、エレクトロ・ハーモニックスを再建し、再び繁栄へと成長させる足掛かりになりました。
ロシアでは、ハード・カレンシー(国際的に交換可能な通貨)がないため製品を買ってもらうことができないが、米ドルを欲しがっていることに気づきました。Mike Matthewsは起業家としての勘を働かせ、ロシアから何が買えるか考えました。
Mike Matthewsは当時を思い出しながら話しました。
「ジェリービーンICと呼んでいた安い集積回路を、ロシアから買ってくることを思いついたんだ。electro-harmonixでは、メーカーが話題の新シリーズの集積回路を出すと、安いジェリービーンフィリングの製造を中止してしまい、高いコストを支払うか入手できなくなるという事態を3年ほどのサイクルを経験していました。」
「そこで、ロシア製の品質が良ければ、こうしたサイクルが訪れたときに、その隙間を埋めて大儲けできるのではないかと考えたのです。 そして、そのビジネスを展開し始めました。」

1998 真空管工場の買収

「その頃は全てが政府に管理されていたんだ。1988年のある日、電子工業省に行くと、壁に真空管がかかっているのが見えたんだ。私は、『真空管?ギターアンプに使われているものだ!』と思い、「これのサンプルを下さい」とお願いしたら木箱に入れて送ってくれたんです。」
「それをロングアイランドにある私の友人で、初期のアンペグ・アンプのほとんどを設計したジェシー・オリバーのところに持っていって、彼にチェックしてもらったんです。彼は「マイク、この真空管は良いものだ!」と評価してくれたので、ICから真空管に切り替えました。」
「私はアパートの一室で一人で仕事をしていて、真空管は天井まで届くほど積みあがっていてね。全部一人でやっていたんだよ。それで私は業界で名が知られるようになったんだ。」
「全国のサービスショップに電話をかけて、注文を受けていたんだ。そして世界最大の真空管工場がある街に、アメリカ人として初めて招かれるまでに成長して、そこは軍の工場の一部だったんだけど、今ではその工場の100%を所有しているんだ。」
マイクは1998年にサラトフのリフレクター工業団地にある工場を購入し、ギターアンプメーカーのマーシャル、フェンダー、ヴォックス、ピーヴィー、オーディオマニアメーカーのマッキントッシュやオーディオリサーチなどを顧客に持つ、間違いなく世界最大の真空管サプライヤーに成長させたのです。

マイクは振り返りました、
「90年代初頭にロシアが崩壊し、真空管を作っていた工場はコングロマリット(複合企業)で、集積回路や時計、光学機器なども作っていたんだけど...工場をいくつかに分割し、私は真空管の販売を続けていたんだ。」
「しかし、彼らはロシアの銀行から多額の借金をして、返済ができなくなり、私のところに来て、『会社を閉じるか、あなたかグルーブチューブに売るしかない』と迫ったんだ。。当時は、真空管を売ることが圧倒的に多かったので、工場を買い取ったんだよ!」

90年代後半 再始動

その後、マイクはビンテージ楽器市場が盛り上がっていることに着目します。
「90年代初頭、70年代に作っていたelectro-harmonixのペダルが、高値で取引されていることを知ったんだ。」
「70年代にはビンテージ市場というものはなかったけど、90年代にはビンテージ市場が出来上がっていたんだ。だからelectro-harmonixのペダルを再び作り始めたんだ。サンクトペテルブルグにあった、その頃必死で仕事を探していた小さな軍需工場に、Big Muffの回路図とサンプルを渡したんだ。彼らはPCボードをレイアウトし、新しいハウジングを設計して、私のために作ってくれたんだ。その後Bass BallsとSmall Stoneフェイザーを追加して製作してもらったよ。そしてelectro-harmonixの人気ペダルをすべてリイシューし、ニューヨークで作り始めたんだ。最終的には、開発チームを結成して、まったく新しいペダルをデザインするようになっていったよ。」

ロシアでの成功

90年代から2000年にかけて、electro-harmonixはさらなる発展を遂げました。過去の伝統的な製品を復刻し、新作のペダルを市場に投入することで製品ラインアップは充実し、2005年にはelectro-harmonixのペダル・ラインは40種類を超えるまでに成長しました。それにもかかわらず、ロシアから輸入した真空管がelectro-harmonixの製品構成の中心であり、electro-harmonixのポートフォリオにはelectro-harmonix、EH Gold、Genalex、Mullard、Sovtek、Svetlana、Tung-Solといった素晴らしい真空管ブランドが掲載されていました。

2005年、マイクのロシア真空管工場は800人以上の熟練工を雇用し、月に約17万本の真空管を販売していました。1998年にサラトフのエクスポパル工場を買収して以来、生産量は約300%増加し、世界最大の真空管生産工場となりました。

2005年 ロシアでのトラブル

その頃のロシアでは、悪徳商法を行う企業乗っ取り屋が企業を次々と買収し、ギャングなどによるホワイトカラーの汚職が横行していました。サマラに本社を置くRBE(ロシア・ビジネス・エステート)は、サラトフを拠点とする企業の乗っ取りを始めました。
「リフレクター工場団地には、光学製品、時計、集積回路、真空管などを製造する巨大なエレクトロニクス複合企業が入っていたんだ」とマイクは語ります。「その中で私の真空管工場は一番大きかった。RBEは、リフレクター工場団地の真空管工場以外と、団地全体に電力を供給していた電力会社RefEnergoを買収しました。そのRBE社が、エキスポパルを買いたいということで、私に40万ドルのオファーを出してきたんだ。1998年当時、私は工場をそれ以上で買い上げて、その頃の売り上げは月60万ドルほどになっていたので売る気は全くなかった。それにもかかわらずRBEは、工場の責任者であるウラジミール・チンチコフに近づき、「マシューは売ったほうがいい。もし、売らなかったら、大変なことになるぞ』と言ったのだ」。

「RefEnergoはRBEの子会社となり、2006年1月1日に工場の電気を止めるという手紙を送ってきたんだ」
マイクは説明しました、 「RefEnergoは、一次エネルギーである電力と、二次エネルギーである水素、窒素、酸素などのガス類の2種類をを供給していました。しかし、彼らは間違っていたんだよ。電力を止めることは違法だったんだ。そして今度はリフォーム工事が必要だからガス類を止めると言ってきたが、そこでまた彼らは失敗したんだよ。彼らは他の利用者に二次エネルギー(ガス類)を止めることを伝えていなかったんだ!」

CNBCニューススペシャルリポート

2006年 ROCK ‘N’ ROLL ROUTS RACKETEERS

ロックンロールの勝利
マイクは、脅しやゆすりに屈することなく、「ロックンロール対反社会的勢力」と銘打ったダイナミックで多面的な広報キャンペーンを展開しました。「真空管商売の大きな得意先の経営責任者の方々が我々に代わって手紙を書いてくれることに合意してくれたんだ。アメリカからPeaveyとFender、イギリスからVox、日本からKORGでした。その手紙は、サラトフ州知事、内務大臣、検事正、そしてプーチンが任命した私たちの工場とRBE社の本社があるヴォルガ地方の責任者などのロシアの要人に送られました。米国大使館も緊密に連携し、ウィリアム・バーンズ駐ロシア大使がサラトフ知事をはじめとするロシア政府高官に手紙を送り、私たちのための懸念と支持を表明してくれました。"
マイクはロシアの独占禁止委員会仲裁裁判所に訴え強固な判決を勝ち取りました。しかし、RefEnergo社は2006年3月29日、エキスポプルの電気を止め、チンチコフに「みんなに金を払ったから成功したんだ!」と自慢していた。4月5日、サラトフ州知事のイパトフ氏は、エキスポプル社とRBE社に官庁で面会するよう命じ、その翌日、知事が電気を復旧させている間に、ガスが止められてしまった。
「知事にもう一度訴えてガスを復旧してもらったけど、今度は工場の外にはロシア人ギャングがたむろし始め、他の奴らはジャッキハンマーで粉塵を巻き上げ、チューブ製造を邪魔したんだ」とマイクは回想する。

4月7日、800人以上のエキスポプルの労働者たちが横断幕を掲げてサラトフ政府施設の前をデモ行進し、買収の企てに抗議した。モスクワ・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ、MSNBCや、数多くの音楽・主流メディアがインタビューや記事を取り上げ、この闘いにさらなる焦点を当てました。こうしてマイクの声、そしてエキスポプルの労働者の声が聞かれるようになりました。
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それでも、闘いはそこで終わりませんでした。RBEはRefEnergoを含むReflektorの持ち株を別の極悪組織、SDM(Samara Business World)に売却してしまいました。SDMも、工場のエネルギー資源の遮断にも取り組み、エキスポプルを「水素を盗んだ」として訴えました。そして、「サラトフにアメリカのスパイがいる」「サラトフがアメリカの影響を受けている」などと、世論を混乱させ、最終的にはマイクに売却させようとしたのです。そして、駐ロシア大使のウィリアム・バーンズ氏の手紙を偽造してまで公開しました。国務省は、それが偽造であることを確認し、バーンズ大使がこの手紙が書かれ署名されたとされる日の前に、実際にロシアでのポストから離れていたことを説明しました。ウィリアム・バーンズ大使は2021年3月18日に中央情報局(CIA)長官に就任することが決定しました。

最終的には正義が勝ち、「ROCK ‘N’ ROLL ROUTS RACKETEERS」(ロックンロールの勝利)が掲げられたが......厳しい戦いの末のことでした。残念なことに、エキスポプルの労働者を支援したサラトフの主任検事が暗殺され、命からがらの勝利の代償を払うことになってしまったのです。この事件は、「敵対的買収工作」という言葉に、新たな意味をもたらしましたた。
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2006年 スターリングラードへの道

「生き残った人たちに敬意を表したい
スターリングラード戦の退役軍人と、自分たちの勝利を祝うために。」
マイクは歴史の勉強家でもあり、ロシアやナチスの戦いなど、第二次世界大戦に精通しています。また、ロシア軍の指導者で、スターリングラードやクルスクなど、赤軍の決定的な勝利の多くを導いたゲオルギー・ジューコフ将軍の熱烈な崇拝者でもあります。

エキスポプルの不正な買収を阻止した後、マイクはエキスポプールの従業員の子供たちであるサラトフの青少年達がソビエト連邦の歴史的都市を訪れる2回の祝賀旅行のスポンサーになりました。1度目は、近代戦争で最も長く、そして最も血生臭い戦いの舞台となったスターリングラードへサラトフからバスで向かいました。「約200万人が死傷したが、スターリングラードの戦い(1942年8月23日〜1943年2月2日)は最終的に第二次世界大戦(ロシア人は大祖国戦争と呼ぶ)の流れを連合国側に引き寄せたんだ」とマイクは説明します。「私は、スターリングラードの戦いで生き残った退役軍人に敬意を表し、私たち自身の勝利を祝いたかったのです。10代の若者たちは、"Rock & Roll Routs Racketeers "と書かれたTシャツを着ていたよ。」 彼らは史跡を巡り、退役軍人病院を訪れ、スターリングラードの戦いで生き残った退役軍人全員にプレゼントを渡しました。老いも若きも出会い、混ざり合い、異なる世代がつながる機会になりました。

2006年 クルスクへ

クルスクの戦いは、スターリングラードの戦いの後、1943年の夏に行われました。「あれは史上最大の機械化戦闘だった。6,000台の戦車、数千の大砲とロケットランチャー、4,000機の航空機、そして200万人の兵士が参加しました。ロシア軍は重要な情報に基づいて十分に準備しており、彼らの勝利は東部戦線におけるドイツの攻撃力の決定的な終わりを意味した。これはヒトラーの最後のあがきであり、ナチスは決して立ち直ることはできなかった。」
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バス2台分のエキスポパルの学生とサラトフのロックンロールバンドがクルスク大学の受け入れ先であるサラトフから、10数時間に及ぶ旅をしてきました。この日は、ナチスに勝利したことを記念するロシアの祝日「戦勝記念日」でした。クルスクのロックバンドも加わり、サラトフとクルスクの学生たちは、大学のアリーナで一緒に戦勝記念日と「Rock & Roll Routs Racketeers」でのエクスポパルの勝利を祝いました。

翌日、彼らは市内を見学し、地元の退役軍人病院を訪れ、生き残った兵士たちにプレゼントを持って行きました。「スターリングラード訪問と同様、クルスクで起こった歴史的な戦いの生存者に敬意を表し、また、工場の勝利と800人以上の従業員の雇用を継続するための戦いに祝福したかったのです 」とマイクは語りました。

成功への道のり

「私が一番好きなペダルは一番の売れ筋だ!」
前述の通り、マイク・マシューズがエフェクタービジネスに初めて参入したのは、彼がGUILDのためにFoxey Lady Fuzzを製作していた1967年でした。

その1年後、彼はIBMを辞め、electro-harmonixを立ち上げ、のちにブランドアイコンとなったLPB-1Linear Power Boosterを発表しました。その後半世紀以上に亘り、同社の製品ラインアップは、誰もが想像していた以上に成長しました。

1960年代後半に発売されていたエフェクターはまだ数種類に過ぎず、競合他社も少なく一握りのペダルメーカーが市場でしのぎを削っていました。

それが今、この原稿を書いている時点(2021年)で、ペダル、アンプ、弦など150種類以上のelectro-harmonix製品を販売し、真空管は360品番以上もあるのです!マイクが一人でelectro-harmonixをスタートさせた当時を考えると、これは驚くべき成果です。
お気に入りのペダルを聞かれると、マイクは必ずこう答えます。"私のお気に入りは、売れているものだ!"と。
それを念頭に置いて、ここでは同社が長年にわたって享受してきた最大のヒット作を紹介します。

マイク・マシューズのマイルストーンを祝うスターたち

エフェクターのゴッドファーザーであるマイク・マシューズの80歳の誕生日を祝うために、さまざまなアーティストが直筆のメッセージを寄せています。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテ、フランク・ザッパが「エレキギターを再定義した」と評したエイドリアン・ビリュー、型破りのジャック・ホワイト、伝説のファンクスター、ブーツィー・コリンズ(マイクはブーツィーのジェームス・ブラウンとの仕事の大ファン)、伝説のピーター・フランクトンなどが祝福してくれました。
次回はEHX PRODUCTSで主要な製品を紹介致します!