BIG MUFF誕生秘話

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これからの物語は実際Mike Mathews氏自身が直接伝えて下さった貴重なお話です。

 

 

1969年当時、私(electro-harmonix)はLPB-1ボックスにマイルドなオーバードライブ回路を搭載したMuff Fuzzを既に販売していました。 私は、もっと大きな箱に入った3ノブのディストーション・ユニットを出したいと思い、ベル研究所のデザイナーである友人のボブ・マイヤーに、サステインの効いたユニットをデザインしてくれるよう頼んだんだ。

 

ボブからプロトタイプを受け取った時、私はその長いサステインをとても気に入りました。そのサステインは回路をカスケードし、それぞれ2つのダイオードでクリップさせていたんだ。 けれども、クリップすると音色が少し粗くなることがあって… 高域の歪みの粗さを除去するために私はコンデンサを何日もかけて交換し、最終的には回路の異なる部分に3つのコンデンサを付けて、ざらつきを除去することで「甘いバイオリンのような音」のロングサスティーン・トーンを実現できることが分かったんだ。

 

そして、ニューヨークの48番街にある、マニーズ・ミュージック・ストアのボス、ヘンリーに最初のユニットを持ち込んだんだ。  1週間後、ケーブルを買うためにマニーズに立ち寄ると、ヘンリーが「ヘイ、マイク。 この新しいビッグマフをジミー・ヘンドリックスに売ったよ…」と大きな声で伝えてくれたよ。

 

さて、私とジミーの歴史を少し話そう。 60年代の中頃、私はコンサート・プロモーターをしていたんだよ。 アイズレー・ブラザー、コースター、ドリフターズ、キャデラック、ラヴィン・スプーンフル、ヤング・ラスカルズ、バーズ、タートルズ、シャレルズ…などなど、たくさんのアーティストを扱っていたんだ。

私はチャック・ベリーを2晩ブッキングし、このライブを楽しみにしていました…

チャックは一人旅だったので、プロモーターはバックバンドを用意しなければならなかったんだ。 私はキーボードを弾くことにして、チャック・ベリーのカバーを主にやっている仲間にチャックのバックをやってもらうことにした。

ライブの1週間前に、チャックの話をくれたエージェントから電話がかかってきて、「マイク、ちょっと頼みがあるんだけど、他のバンドもブッキングしてくれないか。3日間600ドルで演奏してくれるバンドなんだけど」と連絡があったので、私は 「ボブ、他にもう一つのバンドなんかいらないよ、観客はチャック・ベリーを見るために来ているのに、また600ドルも無駄に使うことになる。 」と返しました。

ボブは言いました、「お願いがあるんだ。 三晩で500ドルでどうだ。しかも、彼らには歯でギターを弾くことができる奴がいるんだ」
私はOKして彼らをブッキングし、ボブは将来的に私に次のような借りを作ることになります。そのバンドの名前はカーチス・ナイト & ザ・スクワイヤーズでした。

 

チャックが演奏して私と仲間がバックを務めた時の事です。私は最初のセットが終わり少し疲れていたので、これまでの入場料を確認しに行った時、カーティス・ナイトのバンドが演奏中でした。私はあまり気に留めていませんでしたが、チャックのバックを務めていたギタリスト、スティーブ・ナップが駆け寄って来て、「ヘイ、マイク、このギタリストを観てくれ、彼はすごいよ!」と教えてくれました。  そのギタリストというのが、ジミ・ジェームスだったんだ。 当時、彼のプレイスタイルはルーズなR&Bだったよ。

私たちは親友になり、私は週に何度か本業だったIBMコンピュータ・セールスマンとしての仕事を抜け出して、彼のホテルの部屋に行き、音楽談義に花を咲かせたんだ。 ジミは無口な男で、狭いホテルの個人用トイレもない古びた部屋に住んでいたよ。いつもピンクのヘアカーラーで髪をセットしていてね。

 

ある夜、カーティスと一緒にライトハウスというアッパー・ウエストサイドのクラブにジミーの演奏を聴きに行ったんだ。  カーティス・ナイトは本物のギャングスターで、主にポン引きとして大きな仕事をこなしていた。

そのライブでジミは休憩時間に俺と会って、「マイク、俺はこいつから離れたいんだ。 俺は自分のバンドを結成してヘッドラインで活動したいんだ 」と打ち明けてくれた。 「ジミ、フロントマンになるんだったら歌わなきゃダメだ」と伝えたら、 ジミは「ああ、それが問題なんだ。俺は歌えないんだ」とこぼしたね。

「ジミ、もし本当に歌いたいのなら、練習さえすればかっこよくなるよ。 ミック・ジャガーやボブ・ディランを見ろよ、彼らは歌えないけど、尻を叩いてダイナマイトなソウルを表現できるんだ」 と私が伝えると、 ジミーは「ああ、いいこと言うね。 練習してみるよ」と答えてくれたね。

 

やがてジミは自分のバンド、ブルー・フレームズを結成したんだ。 私はグリニッジ・ビレッジのカフェ「オー・ゴー・ゴー」に彼らを聴きに行った。 同席したのは友人のボビー・コロンビーで、彼は後にブラッド・スウェット&ティアーズの共同創設者兼ドラマーになったんだ。 彼はエリック・クラプトンを誘って、私たちと一緒に座った。 ジミとブルー・フレームズは相変わらずルーズなブルース・スタイルで、素晴らしい演奏をしていた。 休憩時間には、みんなで通りの向こう側へ食事に行ったんだ。 クラプトンが何度も何度も言っていたのは、「この人がこんな凄いとは信じられない」ということだけだった。

 

その直後、ジミは自分に興味を持ったアニマルズのマネージャーと一緒にイギリスへ飛んだと聞いたんだ。 そこから歴史が始まった。

ジミーはイギリスでジミ・ヘンドリックスになり、超個性的なエレクトリック・スペース・スタイルを短期間で確立したんだ。 私は幸運にも、ザ・エクスペリエンスが初めてニューヨークに来たときに見ることができた。 ジミは私に電話をかけてきて、「ヘイ、マイク、今度xxxx(小さなクラブの名前を忘れてしまった)で演奏するんだ」と誘ってくれたんだ。凄かったよ!

 

ジミがニューヨークのレコーディング・スタジオに入るときはいつも、私を誘ってくれたんだ。 私は3つのスタジオに招待され、最後は、彼が出資して所有していたエレクトリック・レディランドだった。

 

長い話だね…  さて、ここからが本題。 ジミが私を第2スタジオ(名前は忘れた)に招待してくれた時、私は彼にその時私が取り組んでいた新しい装置を見せに行ったんだ。

それは4インチのセラミックケースに入ったスピーカーで、ギターのボディにねじ込んで使うものだった。 ギターの信号の一部がこの小さなパワーアンプとねじ込まれたスピーカーに流れ込み、ギターを振動させ、瞬時にホットなサスティーンを得ることが簡単にできるようになったんだ。 これをジミーの感想を聞こうと思って持って行ったんだ。  スタジオに入ると、彼のギターとアンプに接続されたBig Muffがフロアに置かれていたよ。

私はジミに、「私がこれを作ったんだ」と伝えたら、「マニースで買ったばかりなんだ」と教えてくれたので、「ああヘンリーから聞いたよ」と返しました。  そして、フィードバック回路付きのスピーカーがねじ込まれたギターをジミに見せると、彼はそれを試して「ヘイ、マイク、これは面白いね」と言ってくれた。

 

さて、なぜこのような話をしたと思う? 70年代後半、あるギター雑誌のライターからのインタビューで「エレクトロ・ハーモニックスがビッグマフを発売したのはいつですか」と聞かれ、あまり深く考えずに「1971年頃です」と答えてしまったんだ。

本当は1969年なんだけどね。  長年に亘ってヘンドリックスの熱狂的なファンは、この“1971年”のことを取り上げ、「その頃にはジミーは亡くなっていたのだからジミはビッグマフを使うはずがない」と言うんだよ。 だから、私はあなたに本当の事実を知って欲しかったんだ。 この話はこれでおしまい。  他のいい話はまた今度するよ。

 

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